「ワインがもっと気軽に楽しめるお酒であることを知って欲しい」
そんな想いで集まった「35歳」という共通点を持つ店主たちが、たった一人の「35歳」に焦点を当て、
暮らしの中に優しく寄り添うワインとの物語を紡いでいくコーナー。
仕事、恋愛、結婚、子育て…第二の人生のスタート地点とも言われる35歳。
酸いも甘いも知り尽くし、良い意味での「諦め」と未来への「可能性」の中で揺れ動く人生のターニングポイントで、
同世代のみんなはどのようなことを感じ、日々を営んでいるんだろう?
私たちと一緒に覗いてみませんか?
※物語は全てフィクションです。
situation02 「人生の遠回り」〜ポッジョ レ ヴォルピ ・プリミティーヴォ ディ マンドゥーリア〜
「今日も終電か…」
泥のように重くなった身体をどうにか動かし、家路を急ぐ。
ぼんやりと霞んだビルの灯が、虫の大群のようで妙に鬱陶しく感じる。
都内の大手広告代理店に勤めて、早10年。
働き詰めの毎日に、少しずつ嫌気がさしていた。
「東京」という場所に強い憧れを抱いてやって来たが、
今はここにいるだけでどうしようもない虚無感に襲われる。
俺の故郷は、東京とは正反対の片田舎だ。
実家は祖父の代から続く農家で、両親ともに忙しく働いていた。
家族で泊まりの旅行になんて行ったことがない。
小学生の頃、父が参観日に来たことがあった。
周りのお母さんたちは参観日らしく着飾っていたのに、
うちの父だけ土で薄汚れた作業着でやって来たのだ。
「あのお父さんって、誰のお父さんだっけ?」
そんな声がクラスのあちこちで聞こえる中、
恥ずかしくてその場から逃げ出したくなったのを、今でも鮮明に覚えている。
後から母に聞いた話だが、
その日は母が急遽熱を出してしまい、
いつも口下手な父が近所の人に出荷作業をお願いしてまで
参観日に駆けつけてくれたとのことだった。
「恥ずかしい」と思った自分に罪悪感を抱きながらも、
それからしばらく父と口を聞くことができなかった。
いつからか、俺は両親の仕事を継ぐことに嫌悪感を抱くようになっていた。
その気持ちは、時間をかけて
「いつかこの町を出る」という強い想いへと変化した。
「東京で就職したい。」
両親にそう伝えたとき、父は表情を変えることなく、しばらく黙っていた。
おそらく父も、俺がこの町を離れたいと思っていることに薄々気づいていたのだろう。
そして、自分たちが誇りを持って守って来た農業という仕事を継ぐ気が全くないこともー。
「好きなようにすればいい。」
父から返ってきたのはその一言だけだった。
母からは「家業を継いで欲しい」と何度も説得されたが、
俺の気持ちは揺らがなかった。
広告代理店の仕事は、ただ「格好いい」というだけで選んだ。
やっていくうちに少しずつ楽しくなってはきたが、
自分の人生においてベストな選択だったのか、未だに悩むことがあるのも事実だ。
ガタン、ガタン…
心地よい電車の揺れで夢うつつな中、
東京に行く日の朝、父から言われた一言を、ふと思い出した。
「しんどくなったら、いつでも帰ってくればいい。」
東京に出てから、故郷には一度も帰っていない。
近所の人たちから詮索されるのが面倒だというのもあるが、
一番は両親への後ろめたさがあったからだ。
「次の休みに帰ってみようか…」
もう仕事でしか自分の存在意義を見出すことができなくなり、
心が荒んでいた。
35歳にもなってみっともないが、
故郷に帰ることで何か変えることができるのではないかという淡い期待もあった。
手ぶらで帰るのもなんだし、かと言って高価なものも気を使わせてしまうと思い、
手頃なワインを持っていくことにした。
あえてワインを選んだのは、
都会に出て一通り経験してきたという俺のちっぽけなプライドだった。
ワイン好きの同僚が「プリミティーヴォ ディ マンドゥーリア」
という赤ワインを奨めてくれた。
なんでも、果実感たっぷりの上質な味わいとそのコストパフォーマンスから、
ワイン愛好家を虜にしている一品なんだそう。
ワインに詳しくない両親も、きっと喜んでくれるだろう。
———
久しぶりの故郷は、離れてから何一つ変わっていなかった。
まるで時が止まっているのではないかと錯覚してしまうほどで、
納期に追われて忙しなく働いていた俺とは、正反対の世界だとさえ思えた。
田んぼの畦道を歩いていると、すれ違った小学生に
「ただいま」と声をかけられた。
急な出来事で何て返せばいいか分からなくなり慌てたが、
最大限の笑顔を作り「おかえり」と返してあげた。
都会での生活で忘れてしまっていた、人との温かい繋がりに触れ、
目の前に広がる山々の緑が、
より一層色鮮やかに見えるような清々しい気持ちになった。
その晩、手土産のワインとともに、10年ぶりに家族水入らずの食卓を囲んだ。
重たい空気になってしまうのではないかと不安だったが、
不思議と落ち着く時間だった。
「…このワイン、美味しいな」
母が作った肉じゃがを頬張りながら、父がぽつりと呟いた。
たしかに、ほど良い甘さでありながらそのしっかりとした味わいは、
母の作った肉じゃがとも、丁度よく合っていた。
食卓に並ぶ料理には、両親が作った野菜が使われていた。
ここで暮らしていた頃は、野菜は新鮮でおいしいのが当たり前だと思っていたが、
東京に出てからは値段の高さとまずさにびっくりしたものだ。
ワインのおかげなのか話が弾み、両親が農業にかける想いや、
この町を大切にする理由を聞くことができた。
大人になって初めて聞いた両親の本音は、
疲れ切った俺の心を癒し、どこかへ導いてくれるようだった。
俺はきっと、両親の仕事やこの町が嫌いで
離れたいと思ったわけではなかったのだ。
農家であることを「恥ずかしい」と感じてしまった自分自身と決別するために、
この地を離れたかったのだと今更ながらに自覚した。
「…俺さ、仕事辞めてこっちで農業継ごうと思う」
これを伝えるまでに、10年もかかってしまった。
その夜、父は一人食卓で泣きながらワインを飲み続けていたようだ。
長い間、両親には心配と苦労をかけてしまった。
でも、俺の人生には、必要な遠回りだったのだろう。
今は、両親の仕事や、生まれ育ったこの町のことを誇りに思う。
遠回りしてばかりの人生だったが、
ようやく心からやりたいと思えることを見つけられた気がする。
そういえば、両親とお酒を飲んだのは、今回が初めてだった。
変なプライドから選んだワインが、思い出の1本になるなんて思いもしなかった。
これからは、仕事や、この町の未来について語り合いながら
家族で晩酌をする機会が増えるのだろう。
今から楽しみで仕方がない。
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▼ポッジョ レ ヴォルピ ・プリミティーヴォ ディ マンドゥーリア▼